木嶋神社の湧き水を復活させるプロジェクトについて

森ヶ東町まつり委員会

はじめに

 私たちが住んでいる森ヶ東町は、太秦映画村の東南に隣接する世帯数が450戸程の、太秦学区では最も規模の大きな町内である。森ヶ東町まつり委員会は、昭和62年、町内に子供みこしが出来、木嶋神社(蚕ノ社)の祭礼に初めて巡行した時、みこしを担ぐ子供達をサポートする為に、父兄達で組織された全く任意の団体であり、京都建都1200年の『きょうと祭り』に参加したり、子供達とのリクリエーションを企画したりする度に、その輪は広がり現在20代から50代までの幅広い年齢層の25名程がそのメンバーに加わり、平素は町内の防災活動に協力したりしている。
 会の基本姿勢は、何にも強制されず、義務感にも囚われず、自由に発想して心から同意できることを楽しみながら、お互いの親睦を図ることを主旨としている。

主旨

 私たちの町内に、木嶋神社(木嶋(このしま)坐天照(にますあまてる)御魂(みたま)神社(かむやしろ))という1300年以上昔に創建された古い神社がある。京都市の史跡に指定され通称蚕ノ社(かいこのやしろ)とも呼ばれ、境内はうっそうとした森で、その中に泉があり三柱(みはしら)の鳥居が立っている。泉からは滾々(こんこん)と湧き水が溢れ、この池は昔、加茂の明神はこの地から移られたということから下鴨神社にある糺(ただす)の森にたいして元糺(もとただす)の池ともいい、境内を流れる小川の下流には、付近で採れた野菜の洗い場があり、その環境はまさに街のオアシスのような処(ところ)であった。
昭和44年の学術調査ではその水質が分析され、京都の名水として認められている。
しかし昭和30年代中頃から神社周辺地域の宅地化が始まり、昭和60年頃に下水道が施工されたが、その時を境に沸き水の水量が減りだし、10年程前から涸(か)れてしまっている。
 現代の子供達から見れば有名な三柱の鳥居も、森の窪地(くぼち)に建っている、変った鳥居としか見えないのではないだろうか。湧き水が涸れた原因は私達では解りかねるが、高度経済成長に伴う都市基盤の整備と、その恩恵を享受(きょうじゅ)してきた私達にその原因の一旦がある事は容易に推測できる。1300年以上も、多くの先達(せんだつ)によって護(まも)られ続きてきた、この森と泉を20世紀に生まれ育ってきた私達の世代で破壊したまま、子供や孫に引き継いでいいのか。そんな素朴(そぼく)な思いから何とかこの泉を復活させる手段(てだて)はないものかと、まつり実行委員会で集まっては協議を重ねてきた。しかしながら私達はNPOでもなければ市民運動家でもない。ましてや政治的圧力団体等ではさらさら無い。
 しかし自体は深刻であり、森の杉などの針葉樹は立ち枯れる物も出始めた。
 『木の島の森の下水(したみず)引きかけて 注連(しめ)の辺(あた)りに早苗(さなえ)とるなり』と歌に詠まれた情景も50年程前にはその面影を忍ぶ風景を見ることが出来たが今はそれを忍ぶよすがも無い。
 まず、私達が貪(むさぼ)る様に求め続けてきた今の生活文化が、掛け替えの無い自然を無意識に破壊してきたのだという反省の上に立ち、改めて環境を見つめなおす時ではないだろうか。

行動計画

  木嶋の森周辺部の井戸を探査(たんさ)し、その深さを調べて地図に記録し、地下水系の深浅(しんせん)を調査する。
 近くを流れている、現在死物化している農業用水の水源を探査し、その活用法を探る。
  この街の歴史や水の関わりを、分担して勉強し、子供達との触れ合いの場(地蔵盆・祭礼)を利用してその結果を話し合い、又地元で生まれ育った高齢者の方に子供の頃の当地域の様子等を話して貰う。
  水フォーラムに関(かか)わって居られる、学術研究者や行政の専門家の諸先生にご教示(きょうじ)を頂き、現在行われている河川の近自然工法(粗朶(そだ)柵工(さっこう)、粗朶(そだ)沈床(ちんしょう)、連柴柵工(れんしさっこう))が当地域で有効かどうかを勉強し、神社の奉賛会や地域の自治連合会を通じて、行政への提言をまとめる。
 京都市の計画で地下鉄東西線が蚕ノ社まで延伸(えんしん)する事が本決まりとなり、その地下鉄工事による地下水系の変化で、木嶋の森と泉にどのような影響が出るのか、それによって湧き水が復活する期待も込めて勉強したい。
  以上の各項を実現する為、自然環境や歴史、水と生活に関する知識を深める事を目的として、適時、勉強会を開催する。

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